いやー、もう大パニックです。
ここ最近、人間の完成というものについてずっと考えていたんですけどね。
今から2年前に、人は完成を目指す生き方をしても幸せにはなれないというその理由を明確に言語化して、メインブログの方に書いてはいたんです。
でも、その先をずっと問いかけ続けていて、今日とんでもない答えが降ってきたんです。
ただひたすら、衝撃的なことに気付いて、ずっと悶絶しています。
深い思い込みに気付いた時というのは、だいたいしばらく放心状態になり、フリーズして動けなくなるのですが、今日もまさにそんな感じでした。
ざっくり言うと、ある視点からの完成という見え方が手に入ったとでも言うのでしょうか。
こういう深い思い込みに気付く瞬間があるからこそ、仲間と戯れる時間よりも、一人で静かな場所で黙々と内観をする時間が貴重なんですよね。
とにかく、思い込みに気付くには、一人でいる時間を長く取る。
静かな環境で自分にひたすら問いかける。
これだけです。
スマホを触ってる時間とかSNSで遊んでたり、人と無駄に関わっている時間があるなら、その時間を内観の時間にあてて、一つでも多く気付きが得られる状態を作ってください。
まー、人間の完成とか神様的なる存在を目指してしまう人は、私の調査では世界で4%くらいしかいないので、ほとんどの人には関係ない内容ですが。(逆に4%もいるんかい!という見方もありますが。笑)
で、今回どんな気付きを得たかというと、それは誰から見ての完成を目指してるのかという視点です。
誰から見て完成なのかと考えるということは、その視点には必ず他人の目が入り込んでいるはずです。
それは誰なのか。
はい、親です。
私であれば母親です。
つまり私は「母親から見て自分が完成されていれば、それこそに価値がある。」と思っていたことに気付いたんです。
だって、縁もゆかりもない神様のために、わざわざ自分が頑張ると思います?
自分を完成させたいと強く思うということは、その完成させた自分を見てもらって、その自分を認めてもらいたい相手がいることに気付いたんです。
それが私の場合、母親だったんです。
私をずっと否定し続けた母親に対して、自分を完璧に完成させればもう文句は言われないだろう。
これなら絶対に否定はされないだろう。
という思い。
以前書いた記事でも、私は結局母親に認めてもらいたくて完成を目指していたというところまでは気付いていましたが、ここに新たな視点が加わったのは、自分自身が完成された存在であることと、親から愛されることは本来何の関係もないということです。
私は心の中でずっと「自分を完成させれば、さすがにあの厳しいお母さんでも私を認めてくれるんじゃないか。」という思いがあったことに気付いたんです。
でも、それは関係ない。
どれだけ高みを目指して素晴らしい人間になろうが、自分を完成させようが、そんなことで私が幼少期に欲しかった本当の愛情は手に入らない。
もうこんなくだらないゲームってあります?
なので、もし私と同じように人間の完成を目指してしまっている人は、それは誰の視点から見た時の完成を目指しているのかという視点で問いかけをしてみてください。
絶対にその完成させた自分を見てもらいたい相手がいるはずなんです。
じゃないと、自分の貴重な人生を丸ごと使って、そんなことに必死にならないはずですから。
今回こんな内観を経て、おかげで眠いし頭痛はするし、気付きたくないことに気付いてしまってショックを受けている時の体の反応がそのまま出ています。
でも、そういうのを何度も乗り越えることで自分が整っていくので、苦しいけど快感というとても不思議な感覚を味わえるからこそ、内観はやめられないのですけどね。
